40周年記念特集ページ

2016年に創業・創立40周年を迎えるにあたり、創業メンバーの3人による座談会が行われました。

自動車保険の加入率は50%以下、対人賠償は3000万円という時代だった。

私が保険を始めたのは、私がいすゞ(旧水戸いすゞモーター、現在の茨城いすゞ自動車)に(車のセールスマンとして)動務していた頃に、3年ぐらい高校の先輩のNに損害保険の代理店をやらせていて、私のお客さんの自動車保険を任せていた。

これが順調に伸びるのよ。これは本格的に俺が始まればなんとかなるかなと思って。

当時日本火災(日本火災海上保険、現在の損害保険ジャパン)には研修生制度がなかったから、大東京(大東京火災保険、現在のあいおいニッセイ同和保険)で新人を養成する営業社員、というような直販職員として2年やった。

 

 

じゃあ、いすゞ辞めると同時?

 

 

 

同時。それで2年間やった。取扱保険料が7000万円ぐらいのボリュームになって。

大東京の営業職の2年目頃から(当時は口座振替もクレジットカード払いもなかったから)手が足りなくて。

幼馴染のWを部下として使って集金だとかそういうことをやらせていた。

だけど営業職員だから人を使っちゃいけない。それが大東京から大反対をされた。

 

 

そうだよね、

本当は一人でやらなくちゃいけないのに。

会長の地走りみたいなのを使っていたのがダメだって。

 

 

 

ひとりでは手が足りないから二人三人で組織化してやることを考えたけど、それじゃダメだってことになって。

それで日本火災と委託契約を結んで独立しよう、となったんだ。

Nも入れて、私とWとNの3人で三友企画と謳っていた。

だけどお金がないから法人登記はしなかった。

始める時に熊倉も誘っていたんだ。

 

 

そう、いすゞに辞表を出したんだけど、義理のある人が何人かいたから。

俺の顔を立てて「ちょっと待ってくれ」って言って。

最初に声を掛けられた時より1年待って、

俺の入社は(昭和)52年の4月。

 

 

 

うちの女房には「どうなるか分かんないから熊倉さん、やめなよ、もう少し様子見てからにしなよ」って説得された(笑)。

それでも彼は飛び込んできてくれた。

それで営業は4人で始まったけど、内務事務が必要となって、Mちゃんが手伝ってくれた。

Mちゃんは非常に協力的な人だったけど、旦那さんが仕事で独立して引っ越すことになって辞めるということで。

それで飯島さんに目をつけて、そろそろ頼む、そろそろ子供が手が掛からなくなってくるからと声を掛けて。

……それから永いお付き合いになったなぁ。

 

昭和50年頃 最初の事務所にて

当初は小さなアパートの一室から始まった小さな会社が国道沿いの土地を取得し本社社屋新築へと踏み切った。

1981年 国道294号線沿いに建てられた新社屋 全国から保険代理店が見学に訪れた。

茨城銀行(現在の筑波銀行)のH支店長という男気のある支店長と巡り合えたことが恵まれていた。

建築の資金計画で私が躊躇している時に「最悪の場合は ジャンプしてやるから建てなよ」って。

よく一緒にお酒飲んで、そういう話をしてくれたから踏ん切れた。

「事務所が稼いでくれるから、信用が違うから」と言って後ろを押してくれた。

それで予定通り出来た。

「三友企画保険センター建設予定地」という看板を建てたんだよ。

 

ほんとうだよね、

だからそういう今から伸び盛りの時に事務所を建てたから、

余計にそれにも増して信用が違うからよかった。

 

実際、数字(売上)は、うなぎのぼりにあがった。

1983年頃 ロードサイドに看板を数多く建てるなど他の代理店がやらないことを積極的に実行した。

当時の「営業案内」

 

毎年毎年「めざせ何億!」ってもう面白いようにクリアしてね。

 

あの頃は歩いていれば本当に自動車保険は増えた。

 

日本火災の中核代理店21回の連続認定、うちがトップだったんだから。

1983年頃 新しい社屋にて 取扱い保険料270百万円を目標として掲げていた。

高度経済成長期は終焉を迎え、 バブル崩壊、保険業法改正 リーマンショックと時代は流れる…

 

でも今から考えれば自分で振り返って… 若さなのかな、無謀なのかな。

 

でも無謀ではないべよなあ。

 

絶対自信があったと思う。何とかなる。やる。

有言実行というかすぐに実行するじゃない、あれがよかった。

 

今振り返ると怖いな。

 

あぁだから若さだから出来たのか、じゃあ。

今怖いってそんなこと昔は言わなかったもん(笑)

 

歳とってくると色々と。若さだよ。

 

だって全国的にこういう組織にしている会社がなかったもん。

 

そうだよね。

 

1996年の業法改正で、金融緩和になってから、この頃かな、私が苦しかったのは。

自動車保険のフリート契約の保険料の値下げ競争が各社で始まって、この時は全然伸びられないで、

苦しかったなぁ。

 

丁度この頃ふたりで会長と俺で体調崩したりしてな。

 

それと2008年のリーマンショック。

バブルが弾けていた時は、割とね、我々のとこに来たのは田舎のせいか緩やかで都市部より遅かったね。

リーマンショックは突然ガクンと来た感じだったから。

その経済の落ち込みの頃から、今の社長、専務、常務が活躍しだすまで……が、一番精神的なピンチだったね、過ぎてみると。

2007年 日本火災中核代理店会全国大会にて 石原軍団と共に「ファイト!」発生の一コマ(右から二人目が水柿会長)

50周年、60周年へと、脈々と受け継がれる三友企画イズム

 

これだけの大所帯になるってね 想像にもつかなかったけど。

でも私は、家族的な、いくら株式会社三友企画ってね、

これだけの人数になっても、その感じは残してね。

あったかい家族的な会社っていうのが一番いいなぁ。

 

若さっていうのはいいよ。夢が見られるんだから。

この歳になると夢見ても実行力が付いて行かないんだから(笑)

 

 

 

 

 

 

全員/笑

 

あと足腰のしっかりした若い人 (社員)が、もう一人二人(入社すると)、企業が永続的なものになるだろうから今後が楽しみだ。 (終)